昭和52年06月20日 朝御理解



 御理解 第26節
 「信心に連れ入らぬ、ひとり信心せよ、信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが、みな逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」

 あなたが参るなら私も参ろうと言う様な意味合いでしょうね。信心には連れはいらん。一人でもお参りしようと思うたらお参りをする。そういう一つの一念を貫く事が信心には必要だと言う事でしょう。けれども連れはいらんけれども、連れて行ってくれ連れて行ってくれと言うて、頼みに来るほどしに沢山な人が連れのうてお参りをして来る様な信心にならなければ嘘です。
 連れがなからにゃお参りせんというじゃなくてね。あなたが参るなら連れて行ってくれ連れて行ってくれと言うて、しかも沢山な人が言うなら。連れて行ってくれと言う様な信心を身につけたい。自分がようおかげも頂かずに、そして人を誘うた所で大した事じゃない。それにはね例えばそういう信心なら人が逃げておると言います。合うたびに金光様に参りなさい、参りなさいち言わしゃるけん却ってもう、それがいやさに逃げるようなそれでは、いや皆が逃げておると言います。
 それにはね日に日に生きるが信心なりと言う様な信心が身についてこなければなりません。日に日に生きるが信心。日に日に生きるが信心と言う事はね、いうなら我情我欲をとった姿。自分をというものを空しゅうした姿。それが日に日に生きるが信心というのです。我情我欲をとった。自分を空しゅうした姿。ですから日々自分というものを空しゅうしていくのですからね、明くる日の自分は新たな自分である。ね。日に日に新らと言う事言われるような。
 日に日に新らというのはそういう生き方の上にいわば、新たに誕生したそういう生き生きとしたものが湧いて来る。自分を空しゅうしておる。自分というものを空しゅうしてそして、いわば翌日誕生する。そこに新らな自分がある。そういう生き方が本当の信心だぞと言うのです。日に日に生きるが信心なり。そういう信心にお互いがなります時にそれこそ、あなたの話しを聞きたい。あなたの参りよるなさる所に連れて参ってくれという人達が沢山連れのうて参って来るになるでしょうね。
 それが魅力なんです。我情がない我欲ない。いつも自分というものを空しゅうしておる。こんなに素晴らしい魅力はない。魅力ある信心と言う事になりますでしょうね。結局魅力ある信心とは本当なものだと言う事になります。そこで自分の我情が我欲が自分が空しゅうなるというその生き方がです、例えば昨日の御理解を引用しますと。願い信心から生まれたおかげはもう泡のようなものだと。
 泡のようなものでもまた、次から次と受け続けて行く。良いようですけれども、それではあの世にももって行く事にもならなければ、この世に残しておけるというでもないのです。『改まって願う』と昨日は頂いたんですね。改まって願うね。お願いをしお願いをし、せにゃんおれんのですけれども、改まって願う信心なら、改まったという受け物で受けて行くのですから、これならば愈々本当のおかげになり、いうならばあの世にもっていけれるおかげなのです。
 この世にも残しておけれるおかげにもなるのです。私は昨日はもう本当にこの改まって願うと言う事の素晴らしい事を。昨日日曜で大変ここお広前も賑いましたが。もうほんとにあの素晴らしい事だと言うふうに思うた。ですからまぁ初心の人にでもその事を聞いてもらった。ね。自分がその願う事は沢山ありますから願う度に改まった願い方が出来る事によってです、なら自分の我情が少しずつとれていくね。自分の我情というのは自分の思いと言う事でしょうね。
 自分の我欲というのは、当然の人間として当たり前の欲ね。お腹が空けばご飯が食べたい。喉が渇けば水が飲みたいこれは欲じゃない。それは我欲でありません。我欲がいけんのです。いうならば大酒大食がいけんのです。これは酒と食べ物だけの事じゃありせん。ね。これはいうならば許された欲とでも申しましょうか。神様も喜んで下さるいうなばら欲とでも申しましょうか。ですから同じ食べ物であってもね、それが大食になったり大酒になったりすると、それはどう言う事になるかというとね。
 それは丁度悪魔のようなものになるです。まぁ金光教では悪魔という言葉は通用しませんけれども、いうならばそれがめぐりの姿と言う事になるのです。ね。ですからそのめぐりが生命とりと言う事になるのですね。大酒大食は絶食の元。絶食と言う事は生命を取られると言う事です、ね。好きな物を有り難く頂く、しかもそれを適量に、これは許された欲であると同時に神様も喜んで下さる。だから同じ食べ物でもですね、いうならば鬼にも仏にもなると言う事です。
 神様が喜んで下さるおかげになるかと思うとね、それが生命取りになると言う事です。これは決してね大酒大食だけの事じゃないです。全ての事です。生命とりになると言う事はいうなら、それがいうならば鬼であり又は、流で言うならばめぐりだと言う事。こんな素晴らしいおかげのおかげを例えば、それをなら毒なものにするのも薬にするのも私共の精進次第だ言う事になるですね。同じ食べ物でも同じならぼた餅ならぼた餅というのは同じそのぼた餅。
 けれどもそれを適量に頂いた時にはね、神様も喜んで下さりそれをなら食べ過ぎたらもうこれはね、めぐりを食べたようなもんです。ね。神様が喜んで下さると言う所であったら薬です。同じぼた餅でもならそれを食べ過ぎたらそれは薬どころか毒になるというのですね。そういう生き方を身につけて行くと言う事なんです信心とは。ね。だから我情がね出ちゃならん我欲が出ちゃならん。
 そういう不断な精進がです、いつの間にか自分の我情我欲のない自分が又は、自分というものが空しゅうなっていく姿を自分で知る事が出来るのですね。今月今日で生きて行く生き方がお道の信心です。日に日にただ毎日我情我欲しながら生きて行く事が信心と言う事じゃ決してありません。日に日に生きるが信心です、なら我情我欲いっぱいで毎日毎日暮らしよるとは信心じゃない。我情我欲をとりながら外しながら精進していく生き方が日に日に生きるが信心なるとは信心と言うてる。
 今朝から私は大変な事を頂いた。というのは休ませて頂きながら、大体神様は私くらいな人間。本当に自分のような不徳な人間をどうしてこんなに有り難い御用に使われる事になったんだろうかと。しかも私が使われる事によって、人が助かる等と言う様な、その手立てができて皆さん行っておられると言う事は、もうどげん考えても自分というものを分かっておりますから。自分のもんもんがどうしてこげなん御用に使うて頂くのだろうかと思うたらね、もうそれこそ鼓膜の破れる様なご心耳を頂いたんです。
 テレビで「俺もお前もこのままだぁ」というのがあるのでしょうが。あの声を頂いたんです。ね。俺もお前も本物だと。そしてそれから頂く事が大変な事だったんです。ね。キリストに伝えた釈迦に伝えた。さまざまな過去の宗教家に伝えた。それはその時点では本当だったけれども、あれは全部皆が嘘だと言うのです。ね。大坪総一郎に今、日々金光大神の教えを元にして金光大神です、初めて天地金乃神様が本当のことを打ち明けられた。それを教えになった。
 その教えの頂き方いかんで同じ金光教でも嘘の金光教。嘘のと言う事になってくる。なら過去百年の金光教の信心はね、その時点ではどうだろうか。けれども今の合楽の信心、合楽理念をもってすると、嘘だから本当の合楽の信心にここにいうならば変わっていってしまわなければならない。ね。人が助かると言う事に、あまりにもいうならば難しい事をほんなこつのように言うてきたと言う事がですね。
 間違いであると同時にそういう難しい事はとても人間一生逆立ちしても出来る事ではないような、いうならば教えに満ちに満ちておった過去の宗教です。だから単純といや単純です。金光教のいわゆる合楽理念というのはね、いうならお互いがその気になれば誰でもが行じられる。その合楽理念に基づいてするならば、人間の幸せを頂く事が出来る。あの世にももっていけ、この世にも残しておけるという生き方ができる。
 我情我欲を取り外すなら言う事は大変な難しいの様事の様だけれども、それをみやすう手掛りを作りながら、ね教えて行くのが合楽理念です。だから問題はね、それを行じなかったらそれなら合楽で信心もやはり嘘だと言う事になるのです。ただおかげを受けるというだけであった。ために昨日の御理解じゃないけれども改まって願う。改まっていくだけ合楽理念が本当に身に染み込んでくるんです。こういう素晴らしい事こういう素晴らしい本当な事を。
 例えば今私がどんなに声を大にして言うても、まぁ皆が信用するまいと思うです。まぁちょいとも大ほら吹きであると言う事になるだろうと思うです。ですからこれはもう実際自分自身がおかげを頂いていく以外にはないです。いうならば自分自身が本当なね、俺もお前も本物だとい事は、私大坪総一郎が本物と言う事ではなくてです。お前に教えておる事が本物だと言っておられるのです。ね。その証拠には五と五と足せば必ず十になる。十から五引けば必ず五なる。正確な答えが出てくる。
 ためにはねいうならば本当の生き方と言う事は、中々いっぺんに出来ますまいけれども、日に日に改まりが第一じゃ。改まって願うていく、それがね愈々本当なものへ本当なものへと絶対の間違いのない道を踏んで行く事になるのです。真の道を踏んで行く。真のだから今までは真の道とは真の信心とはと、もう沢山な私共の先輩先覚はそれを求め続けられたんです。それをなら合楽ではもう十人おるなら十人が分かる様に、十人が十人頂ける様にみやすう真の道を教え、真のいうなら信心を伝えておるわけです。
 ですからその伝えておるのを受けて、それを行じて行く姿勢を本気で作らなければね、本当なおかげにはなって来ないと言う事。本当なおかげとはだから改まって願うことこそが本当なおかげだ、と言う事が昨日の事が分かって来るですね。そういう例えば本当な信心を段々させて頂くうちに、改まって行くと言う事も必ず我情が取れて行く事であり、我欲が取れて行く事ですから、そこにはもう素晴らしい魅力が出来て来ると言う事なんですね。人間的魅力又はそれをおかげをその人が頂いておるそのおかげの魅力。
 まぁ今日は私があの色々頂いたと言う事が、ほんとにつまづらかに皆さんに伝えらても皆さんでも信じられない様な事ですから、お話にもなりませんけれども。愈々をもって合楽で説いておる事が本当のものだと言う事を増々いうなら、確信を持たせて頂いております。だからどんなに私が確信をもって、なら皆さんに伝え説いた所でですね、私の言う事をだから聞かなければ同じだと言う事になります。聞いて貰いたいそしてそこにその合楽理念のいうなら実証者になってもらいたい。
 それにはどうでもいつの間にか我情が取れ我欲が取れ小さい思いが大きな思いに豊かな思いになっていく。汚い心が麗しい心に一歩一歩近づいて行く事が出来る。そこに魅力が輝いて来る。その魅力にです信心には連れはいらんと言われるけれども、ね、連れて行ってくれと言うのを、おいてこいというのじゃないのですからね。沢山の人がその魅力にですね、いうならば連れて行ってくれ連れて行ってくれと言うて、愈々合楽大発展の御神願が成就して行く事になって来るのです。
 これはね不思議に自分のその不信心な人に限って、もうこれで私は信心のこれで良かちうもん。それば本当なことづけてしまうですね。それでは本当なおかげは受けられません。まぁだやろうと思えばできれるお互いなんですから。愈々本当な事を本当な事と行じてのけれる一つ元気な心がいるです。本気で一つね我情我欲を外して行く稽古をさせてもらわなければ魅力は出ません。ね。
 決して神様が欲をしてならん言う事じゃないです。それを食べちゃならん、それをしちゃならんと言う事じゃないです。けれどもそれが大酒大食になる時に折角の薬が毒になるということ。折角の神様のお喜び頂けれる頂き方があるのに神様が苦い顔をなさる頂き方になってしもうてそれが、そして生命取りにまでなりかれないと言う事。この辺の所が私はね、日々の改まりが第一という精進をしていくおかげを頂きませんと中々それが身につきません。
 ところが金光様のご信心は例えば、改まらなくても磨かなくても、なら我情我欲いっぱいであってもね、お取次ぎを頂いてお願いをする。おかげを受けるからね。けれどもそのおかげはお互い一つ、泡のようなおかげである事を本当に悟らせてもろうて、あの世にももっていけこの世にも残しておけれる、いうならばおかげをですね徳を受けていく。ためには愈々自分が本当に我情我欲のない、自分というものをいつも空しくしてきっておる生き方を目指さなきゃいけない。
 自分というものを空しくしてご覧なさい。もう本当にこげん楽な事はないです。それがなら今日は一日空しゅう自分を空しゅうしていく生き方がです。いうならばそれは自分というものを殺しておる事ですから、あくる日は新たな生命が誕生するわけです。だからそういう生き方を日に日に生きるが信心と仰ったんです。我情我欲しながら毎日生きておると言う事が信心じゃないのです。我情我欲を取り外させて頂く事に自分を空しゅうする事に、精進させて頂いていく生き方がそのままね。
 日に日に生きるが信心なり、というもう本当に勇ましいというか生き生きしたというかね。活力あるいうならば生き方がそこに出来るのです。ね。もうそれこそ希望に満ちた生き方の出来れれるおかげを頂くためにね。どうでも一つ我情我欲を取りね、自分を空しゅうする稽古。これは皆さんが断片的にはなさっておられますよね。特にお伺いをなさる時なんかはそうでしょうが。
 自分は右思っとったばってん親父は左と仰ったからね。自分のいうならば成る程あの自分の我情を取ると言う事がそう言うふうに稽古されるね。佐田の典子さじゃないけれども、行きたくない泣きたくなるほど行きたくない。それでも親先生が行けと仰るから行った。ね。だから自分の思いを捨てて行ったわけです。私は昨日あのお母さんから聞かせて頂いたんだそうですけれども。
 遅うなったからタクシーであそこ学校まで行ったんだそうです。で学校の門前で降りふっと見たら、その自動車が4154であったと言う事だそうです。もう門前に行くまでは、もう行きたくない行きたくない暗い心でしたけれども降りた途端にです、心の中がもうそれこそ賑やかになるというか、あのなんか嬉しい有り難い心で、もう昨日とは打って変わった生徒達。打って変わった周囲の先生方。もうその中でもそれこそ有り難い有り難いで御用がそれこそ御用が出来た様にですね。
 これなんかはいわゆる我情を取っておかげを。だから我情取ると言う事が、こういう楽な事というだけではなくて、そういう働きがそこに起こってくるわけです。ね。そして我情を取ると言う事はこんなにもおかげに繋がるもんだというのですから、成る程我が身は神徳の中に生かされておる。我情我欲を離れてね、真の大道を開き見よ我が身は神徳の中に生かされてあると言う事をそこにいうならば実験する、いうなら見神するわけです。そこに神を見るわけです。
 ですから愈々本気で我情を取る稽古を、我欲を取る稽古をさせて頂くと言う事がいうなら、日に日に生きるが信心なりという、いうなら生き生きとした信心生活が出来る。俺もお前も本物だと言われるほどしに今、合楽で説いておる事は本当な事ですから、自分のね才覚やら自分の思いやらを捨て切って、もう馬鹿んごつなって親先生が言う事を聞いてご覧なさい。それはいうならば本当な事をする事になり、本当なおかげがそれに又繋がる事になると言う事になりますね。
   どうぞ。